昨日、第一報記事を公開したあと、私の元には関係者から幾つか情報が寄せられた。今回は、海外の反響と追加情報を盛り込み、改めてテヘラン支局長拘束の問題を深掘りしたい。
日本とは異なる海外の反応
NHKテヘラン支局長の拘束が明らかになったとき、Xでは、海外と日本で全く違う反応が見られた。
イラン問題の専門家は「hostage-taking(人質外交)」と表現した。ロイターは「恣意的拘束」のフレームで報じた。また、収監先とされるエビン刑務所は「torture wards(拷問棟)」として言及された報道もある中、日本の「静かな外交」に対しては「もっとエスカレートすべきだ」という声も見られた。
興味深いのはペルシャ語圏の反応だ。体制擁護でも記者攻撃でもない、淡々とした事実報道。1月20日の拘束、エビン刑務所への移送、日本政府の解放要求など、感情を排した記述が並んでいる。
AIの発展で言語の壁が消え、海外の反応も見られるようになったのはありがたいことだ。
一方、日本のXではこうだ。
「NHKがやらかしてる」、「NHKは国賊団体だから同情は出来ない」など、自国の記者が外国で拘束されたことへの心配はあるものの、NHK批判も一定見られた。
今回に限らずだが、こうした事件に接して、海外は「報道の自由の危機」と言い、日本は「自業自得」と言う傾向は確かにある。
内部からもたらされた2つの情報
記事公開後、私のもとにNHK関係者から情報が入った。
1つ目。
NHK内部では1ヶ月以上前に拘束を把握していた。しかし報道局幹部は手をこまねいていた。新体制発足直後ということもあり、「誰が責任をとるのか」で止まっていたという。
報道機関としての判断、つまり、報じるのか、交渉を優先するのかの判断を舵取りできる人材がいなかったのだ。
2つ目は退職者からのDMだ。
NHKの基本スタンスは「危ない場所には最後に行く」が原則。ウクライナ戦争でも初期は戦線の後方から申し訳程度にレポートを送る程度だった。
にもかかわらずテヘランで下手を打った背景には、長年の「イランは親日だから大丈夫」という油断があり、政局の変化に気づけなかったのだろう、と。
私自身の在職経験でもこれは腑に落ちる。
外務省の危険度を参考に、危険度が高い地域への職員の渡航は基本的に許可されない。私がアフリカに出張した際も、ヨハネスブルグ経由ではなくケープタウン経由で、限られた範囲を日本人と現地コーディネーターと通訳でチームを組んで移動した。
今回はどうか。イランに支局長が駐在し、電話出演で放送に出ていたこと自体が「安全だと判断されていた」何よりの証拠だ。もし危険だとすれば、もっと早い段階で国外退去させていた。
「親日だから大丈夫」は、合理的な判断というより「なんとなく」の空気だったのだろう。その空気が今回の事態に繋がった可能性が高いと私は見ている。
「報道の自由」が汚れた言葉になった国
海外が「プレスフリーダム」を掲げて懸念を示す一方で、日本人がそれに冷淡なのはなぜか。
正直に言えば、元NHK職員である私自身も「報道の自由」という言葉に抵抗がある。日本ではこの概念が、メディアの自己防衛にばかり使われてきたからだ。
「記者の取材の自由」と聞くと、守るべき理念ではなく、特権の言い訳に聞こえる。
だが、海外には、報道の自由と言論の自由でもって民主化を成し遂げてきた歴史がある。だから記者の拘束は「自分たちの権利への攻撃」として受け止められると思う。
日本にはその経験がない。むしろ逆だ。
敗戦後、戦争を賛美した責任をほとんど取らずに、再びGHQに尻尾を振った。そして事実上の第四権力として君臨してきた。その歴史が、日本の視聴者にとって「報道の自由=メディアの特権」という印象を固着させた。
だから、日本人が自国の記者の拘束に「自業自得」と反応するのは、感情としては理解できる。NHKという組織への不信が、個々の記者の安全への関心を上回っているのだ。
しかし、この事件は複雑だ
NHKにも支局長自身にも、自らが人質として対米交渉の材料になる可能性を想像しなかった甘さがある。イランにとって日本人記者の拘束は、対米カードになり得るというのは誰の目にも明白だ。
それは「報道の自由」の問題ではなく、地政学的な問題だ。
そして記者が拘束されると、負の連鎖が始まる。
情勢が緊迫してきたからこそ取材が必要なのに、支局長が人質になったことで、緊迫した情勢そのものが伝えられなくなる。
人命に配慮して沈黙するか、事実を伝えるか。これは高度な判断であり、正解は誰にもわからない。
だが、その舵取りをして前進できる人材がNHKにいなかった——それが1ヶ月の沈黙の正体だとは思う。
もしこれが日本で起きたら
多くの日本人にとって、イランは遠い国だ。テヘランの支局長の話を自分ごとにはしづらい。
だが考えてほしい。日本においても、政権に都合が悪い人物が取り締まられる可能性は歴史的にみても大いにありうる。「親日だから安全」という思い込みは、「日本だから安全」という思い込みと構造は同じだ。
「自業自得」と切り捨てるのも「報道の自由を守れ」と叫ぶのも簡単だ。だが現実はそのどちらにも収まらない。記者が拘束され、組織が沈黙し、国民は冷笑する、この構造が情報の空白を生み、新たな陰謀論やフェイク情報が跋扈する土壌を作るのだ。
とはいえ、本件において単純な解決策は無い。まずは、このように複雑なケースがあることを社会全体で共有することが大事だろう。

